約束の川
書店にて、星野道夫さんの本を買った。
正直、お金に余裕がなかったけど、収録されている最初のすばらしさに話にまんまとやられた。エスキモーたちの鯨漁の話。
起きていることの描写に、作者の心の声が添えられる。ポツポツと、振りかぶらずに、納得感のある素朴な心の吐露がたまらなく好きだ。こんな文章を書きたいと思った。学校で起きていることについて、こんなふうに書いてみたいなと思う。
うれしかったことがあった。
前任校に。以前担任をした学級にむけて卒業の祝電を書いた。
文章の上達を感じた。
こうして、まとまりのないものでも日々書いていると、自然と積み上がるのだなと思った。
学校ではぼくが一年間にしてしまったことを考える。
ぼくは子どもたちへの謙虚さを忘れたくない。
「申し訳なくて、怒れません。」と嘆いた初任の頃のぼくを大事にしたい。
BGM「うっせぇわ」
https://www.youtube.com/watch?v=Qp3b-RXtz4w
はやりの歌。今こんな気分なんだな。
明るい歌、希望の歌なんて聞きたくないんだ。
前よりも貧しさが日本の中で目立つようになった。
「小さなころから優等生 気づいた大人になっていた」
これはうやっぱりみんなのうたなんだよなぁ。
ナショナルジオグラフィック/2021年3月 人類を魅了する火星
有田式指導案と授業のネタ
ブログに書くことがないのは、授業がないからだろう。
来年度はなんの仕事を受け持つのだろうか。
こう書いていると、現在を軽視している気がした。
いまこの授業がない中でもできることはもっとありそう。
子どもを認める時間がほしいなとぼんやりと思う。
現在への集中の連続性で生きていくといこと。
古典を読み進めている。有田式指導案と授業のネタシリーズを読む。
指導案は、むかし“教案”と呼ばれていた。
“教える案“として教案。教れ、授けるものが教育だと考えれれていたのだろう。
その後、自由主義的な教育の影響を受けて考え方に転換がおこる。
“指導の案“、つまり指導案になった。
本の中で有田先生が一貫していうことは「自ら学ぶことができるようにする指導」。
これは、近年よく耳にする「自立した学び手」と同義語なのではないだろうか。
この間、およそ30年。目指したものは同じ。何があったのだろうか。
ぼくは、今まであったものがほぼ完全に空っぽになった頃に教員になったのかもしれない。あったものの思想や価値がわからない学校にポンっと入ったのかもしれない。
https://www.youtube.com/watch?v=AMWDAuPx26Q
学校では教えてくれなかった算数
学校では教えてくれなかった算数を読む。
野生児や原始的な集落の人々には”4以上の数の概念を捉えることが難しい”という話がとてもショックだった。普段の生活の中に4以上を数える必要性がないと、4より大きな数の存在を考えられもしないそうだ。
読みながらぼくはいつかの1年生の「時計」の学習を思いだしていた。
時計が全く理解できない女の子。
「何時ですか?」と問えば、「35時2分。」とかえってくる。
時間と分からはじめなくちゃと、質問をかえる。
「〇〇さんさ、おやつ何時に食べる?」 ・・・・
「〇〇さん、いつも起きるの何時?」・・・・・
「ドラえもんって何時にはじまるかな?」・・・・・・・
「3時のおやつってきいたことある?」・・・ない・・
あれこれきいても、彼女から時間に関することが一つもでてこなかった。
その時は、勉強が苦手な子として考えていた。けれど、この時計の話も、4以上の数が考えられない本の話と同じで、これまでの生活の中でふれることなかったからかもしれない。いや、きっとそうだなと感じている。
幼少期の生活環境が及ぼす影響について興味をもった。
BGM「帰らざる日々」