学校とゆるやかに伴走するということ
朝は「だれもが科学者になれる」を読みすすめる。
アメリカの小学校教師である著者が進めてきた探求理科の実践について書かれた本。
探求理科のような大きなワークショップ型の学習デザインは、自由度が高くて子供のコントロールが効くか不安という印象を受けることが多いし、その声もきく。しかし、その活動の実際はとてもゆるやかであり、徐々に子どもたちに委ねていくようにデザインされているものだった。ライティングやリーディングもそうだよね。むしろ時間が経つほど、盤石になるのではと思うほど。
まあ、まずアンタやってみなはれ、やね。
午後はゆっくりと「学校とゆるやかに伴走するということ」を読む。
この前はいつ読んだのだろうか。前作(「学校でしなやかに生きるということ」)に比べてあっさりと、ひっかけずに読んでしまったイメージがある。
今回読むとバサバサとひっかかる。こういうことからも自分も変容に気づくこともある。
本書の”実感・質感のある生活”という話。
ぼくはいま、科学読み物ブッククラブ!来年度に向けて探求理科をするぞ!!なんて意気込んでいるが、それは冬休みという余裕のある期間だからそう思っているだけのような気がした。代々いつもそうじゃんね、長期休暇の度に意気込んで準備して、いざ学校がはじまると日々の忙しさに埋もれていく。
どこから崩れていくかといえば、本書が指摘するように食事のような気がする。自分で作って食べる。こんなこともままならない生活から、教室に待ち寄りたい実践が本当にできるのか、ということ。
思えば今年は全く料理ができない年だった。コンビニに頼り切った年ははじめて。
冬休み、1人せっせと久しぶりの料理に勤しみながら考える。(本来料理は好きでもある)今、胸を踊らせている科学読み物の活動も、探求理科もコンビニ弁当を店員さんに温めてもらうところからなし崩れていきそうな1月、2月が見える。
裏を返せば、料理ができるような生活を保障できれば、自分は勝手に動き出すのではないだろうか。去年のリーディングワークショップ、ライティングワークショップはそんな生活から生まれた自分の行動だったとように思う。
学校での教育技術はひとまず、生活を見直す振り返りの必要性を感じて、あと10分ほどで2020年が終わる。
BGM「
黒人クラシックソウルという新しい分野を開拓した年でもあったね。